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独語か英語か

先日… 同居人B氏との通勤途上での出来事。
 
下品極まりない大声を発しながら数人の学生たちが傍を通って行くのをやり過ごした後、彼がこう云った。 「ったく、ノーテンファイラーな…」。
 
へ? ノーテンファイラー?
良く知ってるね、そんな言葉! それって完全なる死語でしょ。 
普通は通じないでしょ、それは。
 
まあね。 勿論、通じないでしょ。
 
わたしにはさ… うちのおじいちゃんが、昔、「ノーテンファイラー」って、度々云ってたから、解るけれどね。 でも、イメージは良くないな。
 
ほお。 おじいちゃんがね。 やっぱり、何か、昔の学生言葉なんだろうね。
っつー事は、ドイツ語かな? 発音の雰囲気もドイツ語っぽいしね。
 
ああ、そーかもね。 「ノーテン」は「脳天」だよね、きっと。
それじゃ「ファイラー」って何かな?
 
さあ…?
じゃあさ、「ゲルピン」は? 知ってる?
 
へ? 何それ? 「ゲルピン」?
 
うん。 「ゲルピン」。 知らないの? 
ドイツ語の「ゲルド」に「ピンチ」で「ゲルピン」なんだよ。 「金がない」ってこと。
 
へえ?!
 
じゃ、「内ゲバ」は?
 
ああ、それは「内輪のゲバルト」だね。
 
そうそう!


などと、楽しい通勤時間を過ごしていたのであるが、わたしは、そんな風に他愛もない会話を続けながらも、昔、祖父がよく口にしていた「脳天ファイラー」なる言葉がどうにも気になって仕方がなくなってしまったのである。
 
調べてみなくちゃ。

正直に云って、この「脳天ファイラー」と云う言葉は、私の認識の中で、特にイメージが悪く(それをよく口にしていた祖父の人となりと相俟って、他人を必要以上に見下している感が否めないっつーか…)、自ら口にする事のなかった言葉なので、深く考えた事がなかったのだが… 云われてみれば、昔むかしの才気走った学生たちが面白がって云いそうな事ではある。 
 
先ず、この「ファイラー」という言葉が、ドイツ語だという前提で調べてみよう。
 
ドイツ語、学生言葉、隠語、などの言葉で検索を掛けてみるが、なかなか「これ」と云ったものはヒットしない。 
発音から綴りを推定。 ドイツ語風に「feiler」で検索してみる。 お? 何やらドイツ関連の言葉のようだが… しかし、残念。 ドイツはドイツでも、これはドイツの有名(多分)なハンカチブランドの名前だった。 しかも、発音は「フェイラー」。 
それじゃあ、お次は「failer」で。 ああ! これは… 「fail」かも。 ドイツ語じゃなく英語か! 「失敗する、しくじる」と云う意味だから「failer」だと、「failな人間」ってことで「不出来な奴「駄目な奴」って感じの意味になるのかな… そんで、「脳天」が「失敗」しているから「頭が悪い」というロジックで… ふむふむ。
 
そうか… おじいちゃんも旧制中学時代に、こういう事を云っては仲間内で喜んでいたのかな… 等と思いながら、しかし、もう一つ納得出来ないような気もして…
 
更に、ずばり「脳天ファイラー」で検索してみると、実に意外な事が解ったのである。
 
何と、「脳天ファイラー」の「ファイラー」は「壊了」と書いて「フォイラ」と読む中国語だというのだ! 中国語だから漢字で書く事が出来るのだ。
 
そうか… ドイツ語でもなければ、英語でもなく、中国語だったのか。
 
だから、中国に駐屯していた経験のある祖父が使っていたんだな… 疑問は氷解したけれど、やはり、この言葉はあまり芳しくない成り立ちを持っていそうだな… と思ったのである。 
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2008年09月11日 | Comments(3) | Trackback(0) | 言の葉

到達点という意味に於いての「ほぼほぼ」

最近、非常に気になっている言葉… 「ほぼほぼ」。
発音は、平板アクセントで一気に「ほぼほぼ」。

この言葉を初めて聞いたのは、多分、昨年の晩秋の頃だと記憶している。 シチュエーションとしては、とある会議の際、広報チームの課長が何か広報に関するスケジュールについて発表している時に「?は「ほぼほぼ」確定しており…」と云ったのである。 一体なんだろう「ほぼほぼ」って? ああ、「ほぼ」じゃなく「ほぼほぼ」? 初めて聞いた! そう思わずににいられない珍奇な語感の非常におかしな言葉だったので、印象深く感じられた。 もしかしたら、彼女はもっと前からその言い方をしていたのかも知れないが、わたしがそれについて「ん?」と思ったのはそれが最初だった。 しかし、それを契機によくよく注意して聞いていると、実はその時点で既に、社内全体で「ほぼほぼ」が使用されているらしい事に気付いたのだ。 
 
知らない間に「ほぼほぼ」は社内に蔓延していた。
件の広報課長の言は、多分、水面下では盛んに使われていた「ほぼほぼ」が、ついに公共の場でも使われ始めた事を示す出来事だったのである。
 
多分、花粉症やファッションの流行と同じように、臨界点に達したそれが溢れ出た、と云うのが真相なのだろうが、如何せんこの言葉… 語感も変なら、字面も変。 とにかく、何もかもが変なのである。
 
「ほぼ」じゃなく「ほぼほぼ」。
 
詰まり、「ほぼ」だけでは伝え切る事の出来ない何か重要なニュアンスが「ほぼほぼ」と云う言葉には込められている筈なのである。 ところが「ほぼ」を「ほぼほぼ」と言い換える事によって「ほぼ」だけでは表現出来ないどんな意味を付け加えたいのかが今ひとつ解せなくはないか。 「ほぼ」ではなく、わざわざ「ほぼほぼ」と云わなければならないその意義は何処にあるのか?

そもそも、何かが「完成に近づいた状態」「そろそろ完了しそうである状態」であることを表すのが「ほぼ」という言葉である。 それでは「ほぼほぼ」は… と云うと?
 
何か、やり遂げなければならない事があって、それが完成に近づいた
→「ほぼ、出来ました」に対して…

1 より完成に近づいた=「ほぼ」よりも完成しているが、まだ完全ではない。
2 ほぼ完成に近づいた=「ほぼ」よりも完成に遠く、まだ「ほぼ完成」に至っていない。
 
…という二つの異なったベクトルでの意味の付加が考えられるのだ。

1の場合は、「ほぼ」ではない、ほぼよりも進んだ状況を表す「ほぼほぼ」という状態になった… という事であり「ほぼほぼ」は「ほぼ」よりも程度が進んでいる事を表す新語と云う事になる。 2の場合は、第一の「ほぼ」を、第二の「ほぼ」が修飾する形であり、「ほぼほぼ」は「ほぼ」に「ほぼ近づいた」という状態である… という事を表す新語だと云う事が云える。

従って「ほぼ」と「ほぼほぼ」を数量的に考えた時に、
 
「ほぼ」<「ほぼほぼ」なのか
「ほぼ」>「ほぼほぼ」なのか
 
そのどちらを云いたいのかが、全く以て不明確なのである。
 
言葉の自然な流れから云うと、2であるように思われるのであるが、しかし、実際には1であるような捉え方をする場合が多いのではないか? 
 
だって… 「ほぼほぼ」は「ほぼ」より「ほぼ」が多いんだもん。
だから、「ほぼほぼ」は「ほぼ」なんかよりも、凄いんだってば。
 
しかし、よく考えてみると、「ほぼほぼ」が「ほぼ」より「どういう風」に凄いのかは判別不能なのである! もしかしたら「「ほぼ」よりももっと進捗している」と云う意味で凄いのかも知れないが、一方では「「ほぼ」と云えるまでには進捗していない」という点で勝っているのかも知れないのである!  
 
一体どっちなんだ!

 
ん? そうか… ここで、見えて来た事がある。

実は、この「ほぼほぼ」と云う言葉とは、「ほぼ」よりも進捗状況が良いのか悪いのかを巧妙に隠蔽しうやむやにしとことん曖昧にし誤摩化すことに主眼を置いた、宮仕えの身には非常に便利な言葉なのではあるまいか?
 
成る程… 社内で蔓延するのも宜なるかな… なのである。

 
わたしも身の程をわきまえて、何事も程々にしておくことに如くはないのである。
2008年01月27日 | Comments(4) | Trackback(0) | 言の葉

日本語は難しくない?

唐突ですが。
日本語は外国人の方にとって、本当に、難しいのでしょうか?

私は…

実は「難しくない」んじゃないか?と思うんですよ、ね。

日本語は、1音1文字。 
そして、1音1文字を表現する事の出来る、平仮名の存在。
それ故に、文字を綴る時に「綴りを覚える」必要が無い。

つまり、平仮名48文字さえ覚えれば、言葉を書く事が容易に出来る。

アルファベットは24文字で表記出来るから、平仮名の半分の字数を覚えれば全てを覚えた事になるので簡単… かと思いきや、結局のところ、その24文字を様々に2つ乃至は3つ組み合わせて、ある一つの「音」を作らなければならず、しかも、それぞれの「音」を作る場合の規則(=綴り)が曖昧(ラテン語系の綴りは規則的?)だったりして、その文化も成り立ちも違う言語を母語に持つものにとっては、非常に取っ付き難いように思うのです。(実際、わたしに取っても非常に取っ付き難い!(笑))

発音は難しいらしいという話を聞きますが。 (単純過ぎて? 母音が多過ぎて?)

膠着語的である事で(膠着語と云い切って良いのかは不明)日本語は、構文がはっきりしておらず「て・に・を・は」さえ間違わなければ、意味が通じる。
しかも、ぶっちゃけた話し、意味を掴む場合に於いて、「て・に・を・は」すら必要としない… とさえ云える。
日本語は、稀に見る、柔軟な言語ですから。

外来語が入り易いのも、このことが影響しています。 だって、それぞれの外国語の音節の発音に似ている片仮名をそれぞれに当て嵌めてやれば良いのだから。

結局、難しいのは、漢字仮名混交文を「読む」こと。
つまり、漢字が難しいのであって、日本語が難しいんじゃない… のではないかと。

聴き取りは、難しいですかね?
同音異義語が多いからなぁ。

その他に、簡単だと思える点は。
定冠詞が無い。 あれ? 無い…ですよね?
単数、複数の区別が無い。 ん? 単数複数の区別の有る言語を母語としている人にとってはこれは、混乱を招く基なのか…?

次第に弱気になって来ました(笑)が、頑張って続けます…

日本語が簡単なんじゃないかと思う最大のポイントは、やはり、「構文がはっきりしていない事」でしょうか。

何と云いますか…。
日本語には「構文」的な概念が乏しいのかなぁ、と思っているのです。

例えば。

私は、納豆を、好きです。
好きです、納豆を、私は。
納豆を、好きです、私は。
私は、好きです、納豆を。

ってな具合で、一寸変ですがどの語順でも一応の意味は通るでしょう?「?です」「?が」「?を」という、助動詞、助詞なんかに単語の持つ役割が支配されている…んですよ。(つまり、膠着語)

然るに、語順に囚われず、云いたい事を表現するのが簡単かな? と思うのです。

私は、外国語は全然ダメなので、良く解らないんですが…
外国語に於ける「てにをは」は、イーコール、構文なのでは?

それで、構文から外れてしまうと、同じ単語を使っても意味がまったく通じない事(?)になるの、か、な… なんて…?

個人的に、外国語を発っしようと思う時にそれを思い留まらせる(阿呆?)原因に、「単語をどの順番で組み立てたら良いのかに対して一瞬のうちに判断をつける」ことが出来ないから… なんですよね。 

お友達から聞いた話。

以下、彼女の話。
海外のホテルでドアマンに「Good morning call me taxi」 と笑顔で話しかけたんです。
私達なら、タクシーと聞きとれば、タクシーを呼びたいのだろうと思いますよね?
でも、そのドアマンは 「Good morning, Taxi」ですよ…。


彼女はこれを、一種文化的な「間違えたときに、真意を推し量ってあげる国民性」の違いなんじゃないかという意見だったのですけれど、わたしには寧ろ、英語で表現する場合に「解釈を間違える余地」があるからこそ誤解が生じるんじゃないかと。 上の例では、恐らく、単語の選び方が不適切であった事と構文に問題があったことで「わたしにタクシーを呼んで」という意味ではなく「わたしをタクシーと呼んで」と云う意味に取られてしまったのでしょうが、まさに、こういった場合、日本語でなら、例え片言であっても「おはよう!呼んでくれ、わたしに、タクシー」となって意味が通じますよね?

これに対する答えとしてはほぼ間違いなく「おはよう!タクシーさん」とは成らない… と思うのです。 

ところで、以上の論(論か?)は、「面と向ってどうにかして意思の疎通を図る場合」という視点です。
ですから、ここでは「漢字」の問題はありません。 話し言葉に限っては、イントネーションの問題はあっても漢字がどうのこうのという事はないですもん。 それに、日本語のイントネーションはそれ程抑揚がある訳ではなく元来平板なのでその点でも問題にならない… 筈ですし。

勿論、日本語の文章を「読み解く」のはある程度、難しいでしょう。 漢字が読めない事、漢字の意味を把握出来ない事、平仮名に加えて片仮名が登場する事など、色々な問題があるからです。

しかし、よく考えてみて下さい。 

わたし達が(わたしが?)横文字を読む時に最も困難なのは、文章の句切れの場所が判断出来ない事なんです。 そして、蟻がズラズラと連なって行進しているようなアルファベットの列に目がくらくら… つまり、日本語に漢字が交じっている事で、逆に、ある程度の句切れ部分の判断が容易なんじゃないかと思うんです。 辞書さえあれば問題解決ですね。 全く素晴らしい。

ビバ! 日本語!
2007年03月03日 | Comments(6) | Trackback(0) | 言の葉

片仮名の「サ」に拘る。

実は、悩んでいる。

悩み事、それは、片仮名の「サ」の書き順。

何方か、はっきりした事をご存知の方はいらっしゃらないだろうか?
もし、いらっしゃったならば、ぜひとも教えて頂きたいのである。

何故、そんなにまで気になるのかというと…
私の勤務している会社の名前には片仮名の「サ」が複数回登場するのだが、これがまた、大変書き難いのである。 しかも、形もなかなか格好よく収まらない。 

私の肉筆を見た事のある方も何人かいらっしゃると思うが、私の筆跡はかなりの乱筆である。 乱筆というか …平たく云えば、ミミズのようなと形容されるべき、ヘタクソな草書体だと思って頂きたい。 実際、自分でも何が書いてあるのか判別不能な事さえあるという大変な代物である。 従って、私の文字は筆順に従って繋がっている。 然るに、筆順が間違っていると非常に恥ずかしいのである… だって、間違っている事が繋がった文字によって歴然と紙に残ってしまうから。

ここで、登場するのが、前述の「片仮名の「サ」」である。

片仮名の「サ」なんていうものは、これまでの人生でそれ程には頻繁に使う事も無く、全く意識した事は無かったのである。 

ところが、だ。

転職し、今の会社に入り、頻繁に社名を書くようになり… 暫くして、私は、ふと… 自分の「サ」がとても変なものに思えてきたのである。 

こんな風に繋がっていていいのであろうか?
この形って… 美しくないのでは?
もしかしたら、これは… ま、間違っているのでは?

漢字由来の万葉仮名から派生しているとすれば、「さ」は「佐」か「差」か… 
平仮名の「さ」ならば、横棒からだが、平仮名と片仮名との由来漢字は違うかも知れない… 
「佐」とか「作」とか、偏から先に書くものならば、左の縦の部分から始まるのだろうし…
「差」であったならば、横棒からか…

誰か教えてえ…

やはり、納得出来る、美しい形の筆記をする為には(あくまでも見た目が美しい事が重要で、読み易く解り易い等ということはどちらでも良いのである…)、正しい書き順で表記する事が必須なのだ。

と云う訳で、更に調べてみる。

平仮名も片仮名ももとを辿れば漢字… つまり、万葉仮名へと辿り着く。
万葉仮名に於ける「さ」を表す漢字を調べてみる。

主要な所で「佐」「沙」「作」「左」「者」「柴」「娑」「紗」「瑳」「磋」「舎」「差」「草」「酢」「散」… ふう、などなど。

この中から、どの漢字が最終的な「さ」になり「サ」になったのかというと…

平仮名の「さ」は「左」の草書体から。
片仮名の「サ」は「散」の初三画。

… なのだそう。

という事は、やはり、片仮名の「サ」の書き順は

1 横棒
2 左側の縦
3 右側の縦

と云う事になる… のであろうか。

この書き順ならば、今まで、私の書いて来た「サ」の書き方は間違ってはいなかった事になるが、この順番だと、どうも形が上手く取れないような気がするのである。 最近は、意識して、左の縦棒から書くようにしているのだが、それはそれで変な違和感がある事は否めない。 まあ、間違っているのだから違和感があって然るべき…   


ん? 否… し、しかし、油断は出来ない。 

私の覚えている草冠の書き順が正しいと云う保証はないのである。

簡単な事ほど、確証を得るのは難しい。

まさにその通りの現実が、今、私にのしかかって来る。


更に、この件に付いて色々とご意見などを頂く。

先ず、私も一寸だけ気になっていた事なのだが、お友達からご指摘をいただいた。

旧字の草冠は「十十」で,さらにその前は「艸」であること。

わたしが、草冠の書き順に付いて一抹の不安を覚えたのは、旧字の草冠の事を考えたからなのである… この旧字に於ける草冠の書き順がどうなのかに引っ掛かってしまい…(しかし、まだ調べていない)

そして、書き順などに拘るのは「字の美しさ」に拘っているのと同じで本筋から外れているのでは? と云う指摘。

確かに、完成した字の形がシンボルとしてきちんと意味を伝える事が出来るのならば、その記号を完成させる過程にはあまり重きを置くべきではないのかも知れない。 しかし、やはり、書き順を正しく書く事で得られる、字のまとまりとか形が美しくなるという実感には、無視出来ないものがある。 

特に、文字が書き順に沿って流れ気味なわたしのような文字を書く人間には…


そして! 基本的な過ちへの指摘が!

何と「散」の左上は「草冠」ではなく「林」だったのだ?!


恥。

あ… しかし「林」だということは、草冠の書き順に縛られる事なく、片仮名の「サ」の書き順を類推する事が出来るじゃないか!


ああ、何はともあれ、良かった良かった。

お終い。
2006年11月09日 | Comments(1) | Trackback(0) | 言の葉

アリンコとアリンド

切っ掛けは忘れたが、同居人のハスヨスさんとイームズの椅子についてあれこれと話していた。

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ねえ… アリンコって、云うよね?

へ? ああ、アリンコね、云うよ、アリンコに似てるから、アリンコチェアって云うんだよ。

うん、いや、椅子じゃなくて… 「アリンコ」って言葉ってさぁ…
---


そう… あのアルネ・ヤコブセンの名作、セブンチェアの前身… その椅子の一体成型された背のくびれが、あたかも蟻の胴体の様に見える事からの呼び名である。 

椅子のお話しをしていて「アリンコ」という言葉が出たら、アリンコチェアの事だろう、と判断して当然なのであるが、ハスヨス氏の思考は既に、違う方向に進んでいるようである。 


---
昔さぁ、元の奥さんがさぁ。
おかしいって云うんだよね、「蟻」のことを「アリンコ」なんて云うなんて、おかしいって。 それで、それを云うなら「アリンコ」じゃなくて、「アリンド」だって…

え? 君も? 君も「アリンド」って云う? 

云いますよ、「アリンド」。
否、寧ろ、「アリンドウ」かな。

でも、勿論「アリンコ」とも云うし、その言葉がおかしいとか、知らないとか、ということはないけれど。
---


ハスヨス氏の元奥さんの故郷「寒川」の方言では「蟻」は「アリンド」であり「アリンコ」ではないのだとか。

私の故郷の甲府盆地でも「蟻」の事を「アリンドウ」と呼称する。 神奈川の田舎地帯である寒川とか、静岡でも山梨よりの地方では方言として似た様な言葉が残っているのに驚く事がある。 基本として、地の利が今一歩の山の中に取り残された地域では、日本語としても古いものが方言としていにしえの姿を留めている事が多く、近畿地方の言葉との類似も見られるのである。

私の認識(=甲州弁)では…

「アリンドウ」は「蟻の集合体」。 それに対して「アリンコ」は「一匹の蟻」

…かな。

「アリンドウ」=「蟻んとう」=「蟻達」=「蟻」に対しての蟻の複数形(?) 

これは、「お前」という言葉の甲州弁変換でも見られる現象。

「オマントウ」=「お前んとう」=「お前達」=「お前」に対してのお前の複数形

って感じ?

しかし、よくよく聞いてみると…


---
ううん、違うよ。
寒川じゃ、「アリンド」は「一匹の蟻」を指してそう云うんだよ。
だから、一匹の蟻が「アリンド」で「アリンコ」はおかしいって…

ふ?ん。

でも、そう云えば、蟻が一匹だけいた時も「アリンド」って云う事もあったかも知れないな。 でも、意味としては「蟻の集合体」の事なんだけどな…

意識していなかったけれど、如何してだろう?

あ! そうか!

「アリンドウ」は「蟻の集合体」じゃなくて「種」としての「蟻の一族」の事なんじゃない!?

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以上、イームズの椅子から「アリンコ」と「アリンドウ」のへと至る、違いの解るお話しでした。


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この記事は、某所にて既出のものです。
その際に、色々と有益なコメントを戴いており、勿体ないので、そのコメント部分も合わせて再録したいと思います。 しかし、無断です。(すみません)


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■そんぴ様よりのコメント

ありんどう>
 「種族を示す語」物質名詞の一種という解釈ですね。甲州弁としても「どう」ですから「蟻たち」を示す「蟻ん党」とは違うのかも知れませんね。むしろ「あきんど」の「ど」に近いのかも。あの「ど」は「商人」の「人」の部分で「商いをする衆」の「衆」に近い気がします。それって物質名詞に近い感じがします。
 「単数」と「複数」というより「特定の個体(an ant)」と「種族全体(the ant)」なのかも。裏づけはありませんが僕もそれ、支持。

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■いぬかわ様よりのコメント

子どもは一人でも子“ども”,関西の年配の方の言葉では「お子“たち”」。これと似たようなものではないでしょうか。うじゃうじゃ群れてるのが普通,という生き物の呼称。
fish, sheep といった英語の単複同形名詞(これまた群れでいるのがデフォルトの動物たち)の逆ですね。
2006年07月08日 | Comments(0) | Trackback(0) | 言の葉

「等閑」と「御座也」の間

毎朝確認する小売店鋪の販売員さんからの売り上げ報告書に、面白い間違いがあった。

店内清掃をおなざりにしないよう…

え?っと、お、おなざり?

あはは、面白い。
これ即ち「なおざり」と「おざなり」の混合ミックスである。

しかも、混合すると云う事は、二つの言葉を知っていると云う事なのである。

いやいや…?

もしや、「おざなり」と書こうとして…
しかし、「なおざり」と云う言葉にも何となく覚えがあり…
成分的には、「お」と「な」と「ざ」と… そして「り」? だから…
あれ? 「な」から始まるのかな…
あれ? 「お」から始まるのかな…
あれ? 「ざ」から… は始まらないな…
あれ? 「り」から…? まさか…

「なざおり」…?
「ざりなお」…?
「なおざり」…?
「なりざお」…?
「おりなざ」…?
「おざなり」…?
「ざおりな」…?


「おなざり」…? 「おなざり」…? 「おなざり」? 

「おなざり」!

なんて… うぷ。

ともあれ、なかなかに偉い。 

---
ところで「なおざり」と「おざなり」は、似ているようで実は全く違う状況を表す言葉なのである。 また、「なおざり」の音が変化して「おざなり」になった訳でも、逆に「おざなり」の音が変化して「なおざり」になった訳でもない。

先ず、「なおざり」は漢字で書くと「等閑」。
辞書に当たってみると「1/真剣でない事。 疎かにする事。 また、そのさま。 2/深く心に留めない事。 あっさりしていること。 また、そのさま。」とある。

対して、「おざなり」は漢字で書くと「御座也」。
辞書に当たってみると「その場逃れにいい加減なことを言ったりしたりする事。 また、その言動やそのさま。」となっている。

あれれ? 何だ同じじゃん… と云うか、その違いがはっきりと解らないので吃驚。 
これでは、辞書に当たってもきちんとした区別が出来ないではないか。 これって、辞書ではっきりと区別して書く程には、「区別する事が困難な言葉」ではない… と云う事なのかも知れないけれど… 如何なの?

気を取り直して、ここからは記憶をたよりに… 

とにかく「等閑」は、「ある対象を「放置」する事によって、いい加減に扱う」事。
つまり、それを「全く顧みない」事であり、言葉としても平安時代頃からある言葉である。 
そして「御座也」は、「ある対象に対してやらねばならない「何か」を行っているけれど、その取り組み方がいい加減である」事。
つまり、それに「一応は着手している」のであり、全く何もしていない訳ではない状態(=やっつけ仕事?)を表す。 確か、江戸時代頃から使われている比較的新しい言葉である。 これは、漢字で書いてみるとその字面からも何か語り掛けてくるものがある様に思う。 その場を、その場の流れで取り繕う… といったイメージだろうか。

であるからして、やるべき事をやっているかどうかを基準とすれば…

「等閑」<「御座也」

酷いのは「等閑」。
比較的ましなのが「御座也」。

故に「おざなりな仕事」とは云っても、「なおざりな仕事」とは云わない… 否、云えない、のである。 「なおざり」を使う場合は「仕事をなおざりにして遊び呆ける」等とすべきだろうか。


---
と云う訳で…

店舗からのレポートに曰くの「おなざり」と云う言葉… もしかしたら、使えるかも?

そう… 決して「なおざり」ではないけれど「おざなり」と云える程までには手を付けていない… そんな曖昧な状況を表す言葉として有効かも… 

なんて事はありませんので、諸氏、お間違いなきよう。
2006年06月28日 | Comments(2) | Trackback(0) | 言の葉

多分、恐らく、もしかして… に関する考察

多分と、恐らくと、もしかして

普段、文章を書く上で気軽にしかも頻繁に使用する、この「多分」「恐らく」「もしかして」。
この、似た様な場面で、また似た様な意味で使う三つの言葉が、実際に使用される際には何らかの使い分けがなされているのか、そしてもし使い分けがなされているとしたらどんな観点で使い分けられているのか、或いは、使い分けるべきなのかを考察してみようと思う。


先ず、最初に、最も身近な例として、自らが個人的に文章を書く時、これらをどういう観点で区別しているかを考えてみる。 

最初に「多分」。
これは、個人的な気分として「周りの人がどう思うかは解らないけれど、自分の中ではほぼ確実だと思っている推量に対して言及する時」に使用している様に思う。 従って、「多分?」で始まる文章は基本的には確実性の高い内容、と云う事になる。

次に「恐らく」。
意味、使い方、ともに「多分」とほぼ同様であろうか。 しかし、使用する機会として「多分」を使用する文脈よりもより硬い文章に使用する事が多く、ある文章の調子に相応しい硬いイメージの言葉として、恣意的に撰んで使用している言葉である。 故に、これもまた「確実性が高い」言い方、と云えるだろう。

最後に「もしかして」。
これは、前者二つとは違い「周りの人もどう思うか解らないし、自分としても確証の持てない、より曖昧な推量に対して言及する時」に使用している様に思われる。 従って、「もしかして?」で始まる文章は余り確信の持てない推定に基づいた内容、詰まり、確実性の低い内容… と云う事になる。

以上をまとめるとこうなる。

「多分」=「恐らく」=信頼度が比較的に高い推量。 
「もしかして」=信頼度が比較的に低い推量。

特に意識した事はなかったけれど、意外にも、使い分けの基準を持って使い分けしていた事が解る。


それでは、客観的に見ると、どうだろうか。
ここはお約束。 辞書に当たってみる。

先ず「多分」から。
見出し語の「多分」は、名詞として読んで字の如く「量の多い様」が第一義。 そして、副詞として「下に推量の語を伴って、おそらく、たいてい。」とある。

可能性の多い、少ないという観点からすると字義の通り「可能性の「量が多い様」」を表すわけで「ほぼ確実な推量」について言及する際に「多分?である」という言い回しを使うというのは間違いないように思われる。

次に「恐らく」を調べてみる。
見出し語で「恐らく」を見ると、「「恐らくは」の略」とあり、副詞。 そして、「下に推量の表現を伴って、かなり確実な推量判断を導く。 多分。 きっと。」とある。 従って「恐らく」は「多分」と同様かそれ以上の確信的推量を表す語であると云える。
因みに、「恐らくは」は「恐るらくは」の略なのだそうで、これは、見るからに漢文訓読調の言い回しであり、辞書にもそう書いてある。 従って、「恐らく」がどちらかと云うと、漢文訓読調の硬い調子の文章に馴染む… のも宜なるかな、である。

更に、「もしかして」を辞書に当たってみる。
意外な事に見出し語としての「もしかして」は存在しない。 
見出し語は「もしか」。 「もしかしたら/もしかして/もしかすると」は用例として見出し語「もしか」の中に含まれる形で記載されている。

わたしは、とても驚いたのだが「もしか」と云う、わたしの言語感覚の中では、「ギクシャクとしていて不用意に略された現代語のような響き。 出来得る事ならば使いたくない」言葉としてインプットされている「もしか」という言葉が、何と辞書の見出し語にもなっている古来からの「日本語」だとは! 「もし」+係助詞の「か」で「もしか」。 係助詞「か」が付く事により「もし」を強める言い方になるのだそうで、意味としては、「もし」の第一義に等しいのだそうな。

もとい。

本題に戻って、「もし」を見てみる。

見出し語「もし」。
第一義は「「ば」「たら」「なら」等の語と呼応して、確定していない事柄、事実に反する物事を仮定して次に述べる物事の条件とする意を表す。 仮に。 万一。」

そうか! 「もしかしたら/もしかして/もしかすると」の一群の言葉は、詰まりは「仮定法」なのだ!
言葉としてのベクトルが「多分」とか「恐らく」とは根本的に違うのだ!


そう、「多分」=「恐らく」が、ある一定の信頼すべきデータに基づいた、確実にあり得るであろう根拠を持った判断を表現するのに対して、「もしかしたら/もしかして/もしかすると」は、希望的観測や何ら根拠を持たない単なる仮定を前提とした根拠の無い推定を表すのである。

例えば… 「明日の天気」という事についての言及で考えてみる。

これを、「多分、明日は雨だろう。」とか「明日は、恐らく雨だろう。」とか云う場合には、現に今現在も雲がどんよりとたれ込めているし、天気予報で見る限りここ数日は前線が停滞するそうだ、従って、明日は殆ど確実に雨が降る… という風な「確実な根拠のある前提に於ける推定判断」を下した上での、多分に客観的な「未来への言及」であると考えられる。 

「未来への言及」であればこそ、そこに、「過去から現在をへて、こうであるからこうなる」という「時間の連続性」のある云い方とも云える。  

しかし、「もしかして、明日は雨かも知れない。」と云う場合には、猫が顔を洗っているし、下駄を放ってみたらひっくり返ったし、夕焼けは綺麗だし… と云う風に「何の根拠もないところでの「仮の話」として、前提自体が推定の域を出ない個人的な気分」を伝える主観的な言い方に過ぎないのではないだろうか。

これは「過去、現在の事象」とは関係のない、希望的観測の中の「仮の世界」に付いての言及であり、云うなれば、「時間軸の異なる平行宇宙」への言及であるとは云えないだろうか。 

即ち…

結論として、「多分」=「恐らく」は「現実の時間の流れを基本とした、あり得べき未来」への確実な推定判断」を表し、「もしかしたら/もしかして/もしかすると」とは「現状の時間に於けるあり得べき流れとは違う仮想世界への幻想」を表すのであり、両者は、実は「可能性の高い、低い」という観点では量れない、全く違う次元での似て非なる言い回しだったである。


諸氏、努々混同なさるべからず。

筆者注)途中から多少調子に乗っており、論理に飛躍が見られますのでご注意ください。
2006年06月25日 | Comments(2) | Trackback(0) | 言の葉

ラ抜き言葉の実際

随分と前になるが、こんな本を読んだ。

岩波新書「日本語ウオッチング」。

日本語ウォッチング 日本語ウォッチング
井上 史雄 (1998/01)
岩波書店
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表紙の折り返しに曰く? 「見れる」「食べれる」のようなラ抜き、「うざい」「ちがかった」「チョー」といった新表現、鼻濁音無しの発音…。日本語が乱れてる! と騒ぐのはまだ早い。言語学の眼で考察すると、耳新しいことばの出現の背後ではたらくメカニズムや日本語変化の大きな流れが見えてくる。長年の調査・研究に裏打ちされた現代日本語の動向観察。

し、しかし…


日本語が乱れてる! じゃなく 
日本語が乱れて「い」る! なんじゃ?

う?ん、乱れている!


いや、もとい。言いたいのはこんなことじゃなくて…(笑)

この本… 意外と面白かった。
特にちょっと興味深く思ったのは「ラ抜き」のお話。

実は、私は前から思っていたんだけれど… 

例えば「読む」とか「書く」って、可能の表現が「読める」「書ける」でしょ? 
これって「ラ抜き」なんだけれど、でも、正しい… 言い方でしょ? 
決して「読まれる」「書かれる」とは言わないし書かないよね? 
でも、「ラ抜き」でないは形を考えるとさ… 「読まれる」「書かれる」でしょ?
それって、尊敬あるいは受け身の形だよね?

なんか、おかしい… な… って。

その疑問が、これを読んで氷解!

そも、「読める」「書ける」のように可能の活用形が「短い」(=既に「ラ抜き」が固定している)のは、基本として五段活用の動詞に限られている。「ラ抜き」言葉の原点が五段活用の動詞の「読む」などの一部の五段活用動詞なのであり、変化のきっかけには諸説あるが、奈良時代あたりでは「読まれる」などと活用していたものが江戸時代には「読める」に変化。その後、江戸時代から明治にかけて殆どすべての五段活用動詞が「ラ抜き」に固定した… んだって。

ん? ああ、五段活用動詞って… 未然形の語幹の語尾の母音が「ア段」なもの…。(否定の表現を作る時に ア段+ナイ になるもの) 

例えば「動く」(うごかぁ+ない)「動かれる」→「動ける」
   「走る」(はしらぁ+ない)「走られる」→「走れる」とか

そう! 既に「ラ抜き」が完璧に変化し切っているって事なんですよ!
すげー! そう考えると、やはり、「ラ抜き」は時代の趨勢なんですよね…

んで、300年かかって五段活用が全て「ラ抜き」になった後、次に「ラ抜き」になったのはカ行変格活用「来る」。

つまり「来る」 「来られる」→「来れる」

これも、そう言えば、普通に使うもんな… 私としては、これにもちょっと抵抗があるんだけれど。まあ、カ行変格活用は「来る」だけだから、五段活用導師の次に来る変化の段階としては妥当なのだとか。

んで、ついに、一段活用の動詞へと変化の波が押し寄せて来ていて、これ則ち、ここ最近問題視されている現象な訳で…

例えば「見る」(みぃ+ない)「見られる」→「見れる」
   「着る」(きぃ+ない)「着られる」→「着れる」

わあ、違和感… でも、意味的合理化、活用の簡便化として、多分あと数十年後… いや、百年単位かも知れないけれど、結果的には五段活用と同じ様に「ラ抜き」が定着する、よね、多分、きっと。
2006年06月04日 | Comments(3) | Trackback(0) | 言の葉

面白くなくなくなく…

まず、「面白くな?い?(語尾上、以下「↑」で表現)」

「面白くない。」と言い切った場合、これは、当然「面白くない」と言う事を示しますが、「な?い?」と語尾を上げる事により、反語的表現となり、「面白くない、という事はない」という意味に変化します。 つまり、「面白い」のです。

そして、「面白くなくな?い?(↑)」

「面白くなく(は)ない」と混同してはいけません。 この場合は「面白くない事はない」という反語表現であり、意味としては結局「面白い」と言う事になりますが、「な?い?」と語尾を上げる事により、「面白くない」ということを語尾上げによる反語的表現で強調する言い方に変化します。 「面白くなく(は)ない、という事はない」という意味です。 つまり、「面白くない」のです。

更に、「面白くなくなくな?い?(↑)」

「面白くなく(は)なく(は)ない」と混同してはいけません。 この場合は「面白くない事はない、という事はない」となり、意味としては「面白くない」という事になりますが、「な?い?」と語尾を上げる事により、「面白くない事はない」という事を語尾上げによる反語的表現で強調する言い方に変化します。 「面白くない事はない、という事はない、という事はない」という意味です。 つまり、「面白い」のです。

ここで、肝心要なのは、どの言葉も、語尾上げ口調で発する話し言葉である… という点です。 語尾上げ口調で話す事により、書き言葉で表現するよりも一段階ずつ多い否定的表現が加わる事になり、一段階進んだ反語的表現となってしまうからです。

話し言葉「面白くな?い?(↑)」= 面白い。/反語表現(片道)
書き言葉「面白くない」= 面白くない。/文字通り

話し言葉「面白くなくな?い?(↑)」= 面白くない。/反語表現(一往復)
書き言葉「面白くなくない」= 面白い。/反語表現(片道)

話し言葉「面白くなくなくな?い?(↑)」= 面白い。/反語表現(一往復半)
書き言葉「面白くなくなくない」=面白くない。/反語表現(一往復)

これが、語尾上げ表現の恐ろしい威力です。
使用する際には、細心の注意が必要です。

しかし、そもそも、面白くなくなくな?い? なんて言う人間がこの世の中にいるのであろうか? という明白な疑問が、私の心の中に沸々と沸き上がってくることもないこともなくはなく… 

おや? 笑っているのかい? ヘンリー。
2006年05月27日 | Comments(0) | Trackback(0) | 言の葉

云い間違いからの考察

昨日、随分と歳の差がある、ある人物と話していて…


ねえ、「フインキ」って、携帯で変換しようとすると出来なくてさ、
「フンイキ」
って入れると出るんだよ、ヘンだね?


へ? もう一回言って?


だから?、フインキが、フンイキ


何? フインキ? そりゃ変換出来ないよ… 間違ってるもん。(内心、ぷぷぷ)


え? だって、フンイキなんてヘンじゃん。 おかしいよ、絶対。


でも、フンイキって入れると漢字に変換出来るんでしょ? ならそっちが正しいんじゃん。(ぷぷぷ!)


でもさ、言葉としてヘンじゃん。 フンイキなんて。


………(暫し心の中で考える)

フ、イ、ン、キ… フインキ
フ、ン、イ、キ… フンイキ

う?ん。 確かに、自然かもね、「フインキ」の方がさ。 
でも、間違ってるよ「フインキ」。 漢字を見てみなよ。 
「雰囲気」でしょ? 「雰」=「フン」/「囲」=「イ」/「気」=「キ」でしょ?



---
一寸だけ目から鱗っぽい感動(?)が有った。

コレを、意味の問題ではなく音声として考えた場合、確かに…

「フンイキ」よりも「フインキ」の方が言葉の流れとして自然で流麗なイメージだし、その分、語感も良いような気がする。 それは、つまるところ、口から出すのに自然… なんじゃないか? 「フンイキ」という発音はぎくしゃくしていて、本当に合っているのかな?的な不自然さを感じるもん。 単語としては間違っているが、言葉の発音的な面から意味を切り離して考えると、「フインキ」に軍配が上がるかも…

そもそも、「雰囲気」は科学用語の「アトモスフェア」を翻訳した作られた日本語の単語だもんね… 発音やイメージがギクシャクしているのは当然かもしれません。

しかも、耳で漫然と聞いていると、「フインキ」も「フンイキ」も違いは殆ど感じない… というか、全然、聴き取れない。

そうか…

こうやって、言い間違いから定着する言葉が出来上がるんだな… 

「あらたしい」→「あたらしい」とか
「しだらない」→「だらしない」とか

もしかしたら、数十年後には「フンイキ」は「フインキ」になっているかも知れないね。 

色々と調べてみると、随分、広まって(間違えて?)いるらしいですよ、「ふいんき」という間違い。 私が例に挙げた歳の差の彼女も、「ふいんき」だと思っている自分は間違っていなくて、「ふいんき」と入力しても漢字変換出来ないのは携帯電話の辞書の方が間違っている! と主張していましたからね。 

これは、冗談ではなく三代先には「フインキ」ですね。

あとね…  似た様な云い間違いで「したづつみ」(本来は「したつづみ」=「舌鼓」)てのもありますね。 

これも、こっちの方が言い易いんですよね。 でも意味を考える(あんまり美味しいで舌を鳴らす)と間違っている事が解るので、「雰囲気」と似ているかも。 

しかし、「したつづみ」に関しては、どうも近年「したづつみ」という云い間違いがそのまま認められつつあるとの話を聞き、辞書に当たってみました。 なんとなんと、「したつづみ(舌鼓)」の見出し語で「<したづつみ>ともいう」とありました。 しかし、さすがに、見出し語にはなってはいませんでしたが。

個人的な意見としては、これは、意味から考えれば「舌鼓」以外の何物でもない訳で… 「したづつみ」では、あまりにも美味しくて、舌が… 一体どうなったの? もしかして、丸まっちゃったの? ってー事になってしまいますから、やはり、使わない方がベターかな、と思います。

間違いが流布したからと言って、それだけで認めちゃうのは…

でも、何時かはそれが正しくなるのかも知れませんが、一寸は抵抗したいな。
2006年05月27日 | Comments(0) | Trackback(0) | 言の葉
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た ま む し い ろ

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