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これまでの人生で影響を受けた本30選

最近、ザ・インタビューズで見掛ける「これまでの人生で影響を受けた書物30選」という質問… 私にも質問が来ないかなー と思っていたんだけれど、まあ、来ないだろうという事で、勝手に答えてみる事にした。w
基本として一作家一冊縛り。

「小公子/小公女」(w)
「黒猫・黄金虫」
「世界の恐怖怪談」
「そして誰もいなくなった」
「剣客商売」
「料理人」
「野蛮人との生活」
「黒後家蜘蛛の会」
「夫と妻に捧げる殺人」
「あなたに似た人」
「脳波」
「夏への扉」
「ガープの世界」
「IT」
「たったひとつの冴えたやり方」
「火星の人類学者」
「チャンピオンたちの朝食」
「毒入りチョコレート事件」
「パッチワーク・プラネット」
「静寂の叫び」
「エクソシスト」
「ポップ1280」
「銃・病原菌・鉄」
「ホワイト・ジャズ」
「ケルベロス第五の首」
「フリアとシナリオライター」
「カチアートを探して」
「黒い時計の旅」
「大聖堂」
「ある島の可能性」

小さい頃は、親が揃えていてくれたお子様向けの世界名作全集を読んで過ごした記憶しかない。その中でお気に入りだったのが「小公子/小公女」… 他にも「みつばちマーヤの冒険」とか「アルプスの少女ハイジ」「クオレ(愛の学校)」などが好きだった。そして、同じ本を何回も飽きずに読んだものである。
その後、ほぼ最初から翻訳物しか読まなかったのは何故なのかは解らないが、多分それが「恰好いい!」と思っていたんだと思う。何でも買っていいと親に云われて放たれた書店で、小学生の分際で新潮文庫の「黒猫・黄金虫」を購入し、悦に入ったりとか…(w)
多くの人が影響を受けたと思われるホラー・アンソロジー「世界の恐怖怪談」!
この本があったからこそ、今の自分があるといっても過言ではない。

小学校の図書館で読んだ何かの子ども向けアンソロジーで知ったクリスティの「そして誰もいなくなった」を親にねだったのだが買って貰えなかった、という事件を経て、小学5年生で県庁所在地までひとりでピアノのレッスンを受けに行くようになったついでにバス代を節約して(使い込み?)本を購入する事を覚えた。その頃、独力で購入した「そして誰もいなくなった」は思い出の本だ。その後の個人的クリスティ祭りの切っ掛けでもある。
この時代に出会った「料理人」とか「野蛮人との生活」は忘れられない作品になっている。

和物で唯一大好きな池波正太郎は家に転がっていた「剣客商売」を読んだのが最初。これには嵌った。

高校生の時、地元の本屋でホラーかと思って手に取った「黒後家蜘蛛の会」… これは、読んでみたら思っていたものと全然違うものだったのだが一期一会の出会いと云うか、一生つき合うだろう本となった。
当時は短編が好きだった。早川書房の「異色作家短編集」に嵌ったのがこの頃。それらから知ったダールとかブロック(ロバート)が好きで、特に「あなたに似た人」は衝撃だった。

SFを読んでみようと思った時期も… お約束の「夏への扉」に加え、アンダースン「脳波」など渋めの選択。しかし、ここで挑戦したハインラインやディックが好きになれず、一旦SFへの道が閉ざされる。ヴォネガットも最初はよく解らなくて挫折。

こう云うのが文学なんだ! と感動した「ガープの世界」。

クリスティに嵌ったのと前後して嵌ったキング。
初期の作品も大好きなのだが、やはり一冊選ぶとなると「IT」になる。

この辺までで学生生活が終了。

その後はまあ、こんなもん。
大人になるに連れて長編を好むようになったような気がするのが大きな変化で、ジャンル(?)よりも作家で好きになる癖は相変わらずだ。好きなのはクリスティだけ… という状態で苦手だったミステリ分野でもディーヴァーというお気に入りが出来た。古本屋で装丁がとてつもなく変で印象的だったのでジャケ買いした「毒入りチョコレート事件」でバークリーに出会った。SFも「黒後家」を書いた作家が書いたんだったら面白い筈… っつー事で読み始めた「ファウンデーションシリーズ」のお陰で開眼し食わず嫌いも治った。
リョサ、エリクソン、ウルフ(ジーン)、ティム、ヴォネガット、ウエルベック… などは大人になってから嵌った作家である。

これからももっと面白い本(作家)に出会えると思うと楽しみだ。
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2011年10月31日 | Comments(0) | Trackback(1) | 日常の風景

微妙なポジション

唐突ですが、実は、私… ず?っと不思議に思っているんですよね、某器官のポジショニング… 即ち、そのポジションについての全貌は一体全体如何なっているのかについて。 折り曲げて、肌に密着する形で仕舞われているとは想像出来るんですが、その感触と云うか何と云うか… まあ、その「具合」はどう感知されるのか? 時々親しい友達(♂)なんかに聞いてみたりしますが、例外なく、否… 別に… とか、否… 普通に… とか、言葉を濁して、はっきりとした意見が聞けた試しがありません。(当たり前?(笑))ブリーフはサポート力がありそうだし何となく理解できますが、トランクスだった場合は如何なのか? はっきり云って、ポジショニングどころじゃ無いんじゃないのか? ぶかぶかで実に頼り無さそうな布地だし。 寧ろ、ぶらぶら? 謎は深まるばかり。
  
そして、一寸別の話しにはなるのですが、私が思うのは、局部的に密着した肌と肌が気持ち悪くは無いのか? と云う事。 何となく気持ち悪そうじゃありませんか? 女性諸君。 突出した物体、しかも体温で生暖かいものがぴたっとばかりにそんな処に張り付いているなんて。 汗で擦れそうだし、違和感がありそう。 

そこで提案なんですけれど、突出した部分の全体を覆う様なものがあったらいいのではないでしょうか。 五本指ソックスみたいな感じで装着。 

それなら爽やかに過ごせそう… って、違うか?(笑?)
2006年11月16日 | Comments(4) | Trackback(0) | 日常の風景

それは、つまり、手段

スキンヘッドがウケているという。

確かに、一昔前は、スキンヘッド=そっち系のお方、という連想も働き、正直に云って、その髪型を試すのは危険だったと思われるのだが、昨今では、街でも職場でも、フツーに… とは云わないまでも、見掛けてもそれ程には奇異には感じなくはなって来てはいると思われるくらいには見受けられる様になった。 一文の中に「には」その他が多数回出現するのはご愛嬌。(笑) そう云う微妙な位置付けである事を微妙に曖昧な歯切れの悪い表現で表してしてみたのであるからして。

しかし、まあ… それでも、猶、特殊なものである事に代わりはあるまいが。

ところで、私は、個人的には、スキンヘッドは比較的好みであったりするし、特に、壮年の男性のスキンヘッドには好感を持っている。 女の子のスキンヘッドも可愛いと思う。 出来れば、自分もスキンヘッドにしてみたいものだ… と(本気で)思っていたりもする。

それに、スキンヘッドは、便利なのだ。

そう… 特に、頭髪の寂しくなった場合に!

もしも、誰かが頭髪に自信がないと歎いているのを聞いたらば、私は、思い切ってスキンヘッドにされる事を提案する。 寂しさが癒される事請け合いである。 ショーン・コネリーが素頭になってスキンヘッドを(否、薄い事を)晒したとき、私は、その格好良さに陶然となったものである…。

あ… スキンヘッドが好きなんじゃなく、禿(失礼)が好きなのか?


スキンヘッドが人気を博している理由として、心理学者の先生の分析は、なんと… 

「スキンヘッドは後ろから見ると男性器にソックリなんです。そのため、どんなに理性の強い女性でも、潜在意識に巨大な男性器のイメージを喚起することができる。また、無地のキャンバスを想像させ、『この人は私の好きにできる』と思い込ませる効果もあります。女性は変化を嫌って安定を好む傾向が強いが、スキンヘッドは時の移ろいを感じさせず、安定感、安心感も与えます」

っつーもの。

えええええ? 

似ているとは思えないんですが… し、しかも、きょ、巨大な…? 
いや、そうでもないか、似ているか?

私が思うに… ハゲ(いや、スキンヘッドですから…)が男性器(しかも巨大な)に似ている、な?んて、即物的な理由ではなく、禿(失礼)は男性ホルモンの作用によると云われており、実際、男らしさの満ち足りている方に禿(失礼)になる傾向が強い様に思われる事から、その様に、男らしい方は、子孫繁栄のための様々な条件に恵まれている可能性が高い… 然るに、世の女性は、経験則から=一種の「ミーム」として、「禿(失礼)の男性には甲斐性がある」と云う事を意識しないまでも閾域下で知っており、それであるが故に、「疑似禿」としての「スキンヘッド」に好感を抱くのではないか… というのが正解なのではないだろうか。

堂々とした禿は良いな。

好きだな、そう云う堂々とした禿なら。



でもね でもね 
かっこよくなきゃね だめだお だめだお
んーんー んーんー んーんー んーんー

それにね それにね
わだいがいつのまにかね ずれてるよずれてるよ
んーんー  んーんー  んーんー  んーんー
2006年11月06日 | Comments(4) | Trackback(0) | 日常の風景

トイレ徒然草

トイレに座っている。

トイレに座っていると、いろいろな事を考えてしまう。

例えば、今座っているこのトイレ。
このトイレに座っていると、せせらぎの音が聞こえて来る。

最新式の洗浄システム… なのらしい。女子トイレにまま見られる現象としての自らの排泄音(じょろじょろろ…)を隠す目的で必要もないのに水を流しその水の流れる音で以て排泄音(じょろじょろろろろ…)をカモフラージュしようと云う実に地球環境に宜しくない手前勝手な行為を牽制する為のシステムで、一昔前は手動でボタンを押し、せせらぎ音を発生させたものだが、最新式のこれは、便座に座ると、せせらぎ音が響き、ドアをあけると自動的に洗浄されるというしろものだ。

しかし、このせせらぎ音は、小さ過ぎて役に足ってはいないように思われる。なぜならば、隣の音が、特に苦もなく聞き取れるから。 …ということは、つまり、自分の発した音も外に響き渡っているという寸法だ。

そして、ドアをあけると洗浄される自動システム。これは、完全に無駄ではないのか? ドアを開けるまで洗浄されないということは、ブツが、流れないまま残ってしまう可能性がなきにしもあらず… 現にそういった現場に居合わせた事すらある。だから、私は手動で洗浄を行い、必ず、完全に洗浄されたことを確かめてから個室を出ることにしている。自動洗浄なんて、機能として無駄なのではないか?

そういえば、過去によく本を読むためだけに長居した某ファミリーレストランチェーンのトイレもそうだった…トイレに座ると、これはご丁寧に、せせらぎの音と野鳥の鳴き声が… そして、こちらは便座から立ち上がると自動洗浄… 至れり尽せり。

しかし、大体が、今のトイレは気の使いようが異常である。何か変なのじゃないか? 他にもっと考える事があるんじゃないのか?

そうそう… 便器の前に立つと、自動的に便座が上がるトイレだってある。あれこそ無駄である。
しかも、便座を上げたままトイレを後にしても、自動的に便座が下がる機能がついていたりする。無駄である。というか、寧ろ、便座を下げる習慣がつかなくなり、使う人間のお行儀が悪くなってしまう。無駄を通り越して、罪悪ですらある。

ん… お行儀といえば…

このトイレを使う人間の中に、妙なトイレットペーパーのちぎり方をするヤツがいる。彼女(女子トイレゆえ)は、トイレットペーパーを30センチにわたって長く引き延ばした状態で放置し、そして、その切り口にはきゅっと手で握りしめたかのようなくちゃっとしたギャザーがよっているのだ。一体どういうシチュエーションならこんなふうになるのか… トイレットペーパーホルダーは右手の方向。そこからペーパーを引っ張って30センチ。ちょうど、身体を動かさずに、ペーパーを引っ張ると30センチぐらいだ。そして、きゅっと手を握りしめてペーパーをちぎる… ああ! 片手ですべてを行おうとしている? んんん? け、けいたいでんわか!

メール作成か! んで、不精にも片手で!

ん… はっ? 今何時? ひぇ?。

こうして、私のプチサボりの時間は過ぎてゆくのであった。
2006年09月17日 | Comments(0) | Trackback(0) | 日常の風景

小姑的台所使用の作法

須く、台所使用の作法は斯くあるべし。

其の壱/須く、機能が同一の道具は増やすべからず。

便利な道具と云うものは往々にして使用頻度が低く、台所の中で粗大塵と化す確率が高いので購入してはいけません。 

正しい作法では…
例えば、皮剥きの為に特化された、皮剥き器は必要ありません。

須く、人は、皮剥き器に頼る事無く、包丁で皮を剥くべし!


其の弐/須く、水道の水を流しっ放しにするべからず。

食事に使用し、汚れた食器を洗う際、決して、水道の水を流しっ放しにしてはいけません。 水を無為に垂れ流しにする事は資源の無駄遣い以外の何ものでもないのです。

正しい作法では…
先ず、食器に付いた食物の汚れを篦で刮げ取り、少量の水で各々の食器の表面を流し、水道を止め、然る後、食器を洗剤で洗います。 この時、決して、水は垂れ流してはいけません。 全てを洗剤で洗い終わったら、そこで初めて、水を流し洗剤を洗い清めましょう。 

勿論、脇に積み上がっている洗い上がった食器を片付けるなど、流水が不要になる瞬間には、必ず、水道の栓を締めるという事を忘れてはいけません。 その都度その都度、水道の栓を開けたり締めたりする事が何よりも大切なのです。 
また、流しの下にある水道の栓を余り水が勢い良く出ない様に調整しておくのは云う迄もありません。 

須く、人は、食器を洗う時に、状況に応じていちいち水道の栓を締めるべし!


其の参/須く、流しの上に水分を残すべからず!

食事を作り終わった後、また、食器を洗い終わった後に、流しや調理台の上に水分を残しておくのは好ましくない行為です。 水分が残っていては、その後の作業に著しく邪魔になるばかりではなく、非常に見苦しいものです。 また、黴やステンレスの染み原因にもなってしまいます。

正しい作法では…
流しや調理台に水分が付いていたら、即座に拭き取って、その後の作業に備え、また、使い終わった台所を美しく保ちましょう。

須く、人は、流し、及び調理台の水分を拭き清めるべし!


其の四/須く、調理中には、調理と調理の段取りに集中すべし!

調理中には、段取り良く行動すべく、別の事に気を取られてはいけません。
例えば、煮込んでいる時には、次の料理の準備の為に野菜を刻む、或いは、それ以前に使用した調理道具を洗って片付けるなど、幾らでも、やらなければならない事がある筈なのです。 それを疎かにする事は、徒に、調理時間を長引かせ、結局は大きな時間のロスとなる事を忘れてはなりません。

須く、人は、調理中の一見暇な時間を読書に充てようなどと考えるべからず!
2006年05月14日 | Comments(5) | Trackback(0) | 日常の風景

浮気に付いての考察

唐突だが、浮気について考えてみる。


詳しく云うと、浮気と云うよりも… 浮気をしたパートナーへの対応について… かな。

やはり、浮気というのは許せないものなのだろうか?

あるネット上のご友人の「結婚&恋愛観」について書いたものを読んで、個人的に一寸(否、かなり)驚いたことから、この考察は始まるのだ。

そのご意見とはこれ。


  浮気、即、別れる。 
  浮気するなんて、人間としてどうか。


ひえ?! かなり断定的にしかも強力に「浮気パートナー」を否定している。

私は、そういう風には思わないだろうし、思えないと思うのである、否、多分。

そもそも、幾らパートナーと云えども、他人は他人。 他人が自分の思い通りになるなんて思っちゃいけないんじゃないかと思う。 
何と云うか…  他人が自分の思い描いた理想像として振る舞うと思っちゃいかん、と云う事… かな。 つまり、 こんなことを云っちゃうと身も蓋もないんだけれど、何かを期待しちゃいかん、と云う事… かな。

浮気をされて、怒る、というシステムって

「私はこの人を愛している」
 ↓
「だから、同じように、この人も私を愛しているはず」
 ↓   
「私はこの人を愛しているんだから浮気なんてしない」
 ↓
「だから、同じようにこの人も浮気なんかしない」

という風に、自分とパートナーとの境界を無視した同一化のロジックで始まるんじゃないかな… しかも、自分の気持ちと行動に対して対等である事を「期待」し「当たり前」であり「前提」として見ちゃって… い、る? 

だから、いざ浮気が発覚しちゃったりすると往々にして

「この人は浮気してる」

「私というものがありながら浮気なんて許せない」
「信頼を裏切った」

となる訳だけれど、これの何処が問題か、というと「私というものがありながら」という部分で、それって、実は… 「私は浮気なんてしていないのに、この人はずるい!」 と云っているのと同じ事なんじゃないかと思うのだ。 

ぶっちゃけてしまえば、人間、誰しも、固定的パートナー以外の異性に目移りするのは至極自然な事なのであり… だって、色々な遺伝子をミックスするシステムを有効活用したいと思うのが人間に生来の本能なのだ。 だから、当然、実行はしないまでも、色々と浮気な気持ちが出てくるのは当然で、それを、各自の道徳観念とある種の昇華によって押さえ込んでいる状態な訳で… ついでに、その人間は自らのパートナーが、その道徳観念を遵守することに「期待」していて、それがこの論理で云うところの所謂「信頼」なのかな… と。

だから、「私というものがありながら」「浮気」したら「許せない」んじゃないのかな…

これって、パートナーと自分との関係が

「自分を愛しているパートナー」対「自分」という図式の、云ってしまえば「アナタ任せ」の関係に陥ってしまっているってことだと思う。  判断の基準が「自分の気持ち」じゃなくて、「自分のフィルターを通して期待しているこうあるべき姿ではないパートナーの行い」になっちゃってる。

だから、自分は「「この人の為に」我慢しているのに、この人は「私の為に」我慢してくれなかった」ので「許せない」」。
何を我慢しているのかというと「浮気心と浮気の実行」であって、突き詰めちゃうと、 なんだ… 自分も浮気したいんじゃん? っつーことか? ってことになる。


う?ん(暫し考える)

あ、そうか…

パートナーが浮気をした(或いは、している)という事実があったとして、それに対して、「許せない」と思う気持ちが何処から出てくるのかという問題なんじゃないかな。  

先ず第一に「パートナー」と「自分」を完全に別個のものとして考えるという必要がある。

そうすると、的確に判断出来るのは何かというと「パートナーに対してどう思っているか」という「自分の気持ち」だけになる。

そうすると、「パートナーが自分の事をどう思っているのか」とか「パートナーが何をどう行動しているのか」は判断の対象にはならず、寧ろ、無視すべき点になる。 

凄くシンプル!

そうすれば、その都度「自分はパートナーの事をどう思っているのか」が判断基準になる。
故に、パートナーが貞節であろうがなかろうが、そんな事はどうでも良くて、その時点での「自分の気持ち」に素直に従えば良い訳である。

事実は「パートナーの浮気」
判断基準は「その時点で自分自身はパートナーの事をどう思っているか」

その答えが「愛している」ならば「水に流す」
その答えが「もう要らないかな?」ならば「許さない」

なので、この場合は、別にパートナーが浮気なんてしていなくても、「もう要らないかな?」と判断した場合はその時点で「おさらば」なのである。 

実に明快。

そして、これは、勿論、自分だけではなく、パートナーも独自の判断を行っている訳であるからして… 油断は出来ないのである。

ちゃんちゃん。

---
■追記

その後、考えた「浮気」の定義について…

「行為に移すのが浮気」とも言い切れない訳で。 そもそも、浮気とは何ぞやという定義は必要かも知れない。 

しかし、相手の女性がどう思っているのか、とか、パートナーは本当は一体どういうつもりだったのか、とか、そう云う事は、自分には全然、全く判らない訳だし、それを自分で想像して補ってしまい、その想像の中で自分が期待するものに対して怒ったり、詰ったり、悲しんだりしてみても全く益がないと思うのである。

そんな訳の判らないものに振り回されるよりは、そう云う事態に直面した時、自分自身の気持ちに尋ねてみるのが一番なのではないか…。

だから、浮気に限らず、何らかの事態が起った場合にも同様に対処する事が出来る… と思うのだ。

例えば、遠距離恋愛をしていると仮定。

相手が本当は何をしているのか判らない状態の中で、何を支えにして強い心を保つ(笑?)かというと、それは、相手を信頼する心… なんかでは勿論なく… 寧ろ、そう云う相手を全面的に信頼したいと思う心が疑心暗鬼を生むのではないか。 だから、理解しようのないものを理解しようとすることはきっぱりと諦め=信頼しようのないものを信頼しようとすることはきっぱりと諦め、最初から、理解出来ると思わない=信じない。 理解出来る=信頼出来る、のは自分の心だけ。 ってな具合に割り切る事が出来れば、強い心を保つのではなく、自分がまだ大丈夫なのかという具体的な判断が自分で来出せるんじゃないかと思うのだ。 

相手の気持ちを理解出来ると思わないこと、浮気するかも知れないパートナーの事は最初から信頼しないこと。

相手の気持ちが理解出来ると思わなければ、相手を思いやる事が出来るようになるし、過剰な期待をする事もなくなり、結果的に、平穏な心でいられるし、浮気するかもしれないと思っていれば、自分が魅力を失わないように努力もしようというものだ。

道徳とか倫理観とか裏切ったとか裏切られたとかそう云う正論を大上段に構えてしまうのは、自ら墓穴を掘っているのと同じなんじゃないかと思うのである。
2006年04月26日 | Comments(0) | Trackback(0) | 日常の風景

楽しい約束

わたしは同居人と楽しい約束をしている。

それは…

もし死んだらば、お互いに、死んだ時にどうなったかそれはどんな気持ちだったか死後の世界は本当にあるのかなど、種々様々な現世での疑問に対しての答えを、幽霊になって戻って来て、生きている方に報告すること。 

もし本当にこの約束が実現したら… と思うと本当に楽しみなのである。


尊厳死の事が論議を呼んでいるらしい。

日本での脳死臓器移植が解禁された時、わたしは、黄色に天使マークの臓器提供意思カードを手に入れて、署名の上、今の今までお財布の中に忍ばせている。 そして、その後、「脳死」と云う事に対しての興味から立花隆氏の著作などを色々と読む内に、「脳死」が、単純に「脳死」と断定する事の出来ない微妙な問題であるという事を知った。 そもそも、「脳死」と云うものに根本的な判断基準がないのである。 その上、判断を下す人間を完全に信頼出来るのか… という、別の意味での根本的問題も抱えている。

そんな不透明で、それどころか寧ろ、胡散臭いとさえ思えるものに対してわたしの大切な命と臓器を託しても大丈夫なのか?

そう云う疑問はないではないが、今の所、回復する見込みがなければ、近親者に迷惑をかけるよりも、新鮮な臓器を提供出来るうちにオサラバした方が良いのかな… と、相変わらず思っているのである。

脳死関連で印象深い書物を二つ。

一つは、梅図かずお氏のホラー漫画「恐怖」の中の一編。(題名は失念)

事故で仮死状態になり脳死と診断されて心臓のドナーとなった少女が実は意識があり、意識のあるままに心臓をもぎ取られて死ぬ… という内容が含まれており、本題の「たたり」部分よりも、このリアル(手術の描写など眼を覆いたくなる程乱暴で、全くあり得ないのであるけれど(笑))なエピソードの方がよっぽど恐ろしくてとても印象に残っている。 

そして、実は、この漫画のような事態は「起こり得る」のかも知れない。 「脳死」の何たるかが解明されない限り… 否、解明されたとしても、正に、脳死に直面している個体が一体どういう状態にあるのかは絶対に解らないのである。 

だって、尋ねる事が出来ないんだもん。 

二つ目は、コニー・ウィリスの「航路」。

死後の世界を科学的に体感する実験を行う科学者のお話しで、今、何故にそんなに感動したのかが今ひとつ思い出せないけれど… 泣いた…。
最後の部分で、キリスト教の宗教観が強くなってくる所が日本人のわたしとしてはどうなのかな、とは思ったのだが、死後の世界があるのなら救われるな… と思ったのだ。

---
と云う訳で…

死んだらどうなるのか
どういう気持ちなのか
怖いのか怖くないのか
死後の世界はあるのか

それを報告する事が本当に出来たらいいな。
報告されるのは… 一寸嫌だけれど。(笑)
2006年04月16日 | Comments(7) | Trackback(0) | 日常の風景

「お得」を断るのこゝろ。

いいじゃん、別に。

本日、ケンタッキー・フライドチキンで軽い昼食をしたためたのだが、その注文の際の会話。

---
わたし「あれと、これと、それと、それからメロンソーダ(笑?)のSサイズを下さい」
店員様「おやおや、お客様! メロンソーダのSサイズとはこれ如何に! 
    よございますか! こちらのセットに100円プラスでMサイズがご注文いただけますものを!」
わたし「いや、Sサイズが良いので、Sサイズを下さい」
店員様「いやさ、お客様! 
    こちらのセットにMサイズのドリンクをおつけいただくとお代は100円!
    然し乍ら、Sサイズのドリンクのお値段は157円! お客様! 
    な、な、な、何と量が多い上に57円もお得なのでございますぞ! 是非に、是非に、ご再考あれ!」
わたし「だから、飲みきれないからSサイズがいいんですって、Sサイズを下さい」
店員様「何と! お解りにならないのでございますか! 
    Mサイズが100円でSサイズが157円… その差額ごじゅ…
わたし「(みなまで云わせず)Sサイズ!」
店員様「… (頬を膨らませ、不機嫌そうな態度になる) あ、そ」


いいじゃん、別に。

まあ、意地になって店員さんのお薦めを断っている訳じゃなく、きちんとメニューを検討し、所謂「お得な組み合わせ」の有る無しも考慮に入れた上で、注文しているのである。 中には気付いていない人もいるかも知れないから、その点について、軽く言及する事は店員として必要かも知れないけれど、一旦断った人にまでしつこくお薦めする事はないんじゃないか? しかも、断られたからと云ってあからさまにムッとしなくても良いではないか?

こちとら、自分の頼みたい物を頼みたいだけなんだから。

詰まる所、結局「お得」と云うことに対しての価値観の押し売りという点に於いて、割り切れないものを感じる… ってのが本音なのである。

何処に価値を見出すかは、それを判断する個人の自由なのであるにも関わらず、何もかもを一般化して解釈し押し付けて来るってぇのは如何なものか。 
例えば「同じ値段で量が多ければ、多い方が得」であり、更に、その上に持って来て「量が多くて値段が安ければ、なおさらに得」と云うのは、考え方の基本としては正しいのだろうけれど… ファストフードの様に元々がリーズナブルで「お得」の差が100円や200円ならば特に …「量が多くても食べきれなくて捨てるのは主義として許せん」とか「お金を余計に払っても、自分の腹具合にジャストな方が気分的に楽」とか云った、量とか値段以外の所で高い価値観を持つ人だっている筈だとは思わないのであろうか。

いいじゃん、Sサイズだって。
いいじゃん、157円だって。

お得の押し売りは止めてくれ。
2006年04月15日 | Comments(3) | Trackback(0) | 日常の風景

トイレットペーパーの実際

トイレットペーパーには、誰にでも「これだけは外せない!」という個人的且つ絶対的な好みがあるのではないか… と思う。

かく言う私の好みは… 柔らかい事、そして… シングルである事。

何故、シングルでなければいけないのか。
それは、薄くて質の良いシングルのトイレットペーパーをペーパーホルダーから繰り出しつつ、両手を使って、あくまでもフワッと、紙と紙の間に出来るだけ空気を含ませてふんわりとさせるのに都合が良いからなのである。 従って、一枚一枚は薄くても、二枚重なる事によって強靭になっているダブルのトイレットペーパーはNG。 唾棄すべき紙である。 ましてや、特売のトイレットペーパーにありがちな「ダブル」であることを声高に喧伝してはいるが、実際には、ごわごわの分厚いペーパーを二枚重ねているだけ… なんてものは粗悪品以外の何物でもない。

同じ品質のシングルのトイレットペーパーとダブルのトイレットペーパーを比べてみるがいい…
詳しく見てみると、当然、ダブルのペーパーはダブルになっており、その二枚の紙はほぼピッタリと合わさっている様が観察される。 つまり、そこには、空気の層が殆どないのである。 使用するトイレットペーパーの長さの総量(目で見た場合、シングルはダブルの二倍の長さ)という観点から考えると、そこに含まれる空気の量=「フワッと感」はシングルのトイレットペーパーの方がどう考えても上なのだ。

しかし、世の中は「ダブル」なのである。
我が家でも、「ダブル」なのである。
ナショナルスタンダードは、「ダブル」なのである。
どんなに、分厚い紙でも、二枚に重ねると価値が上がるのである。
世の中は間違っている。

否… 多分。

ところで、つい先日、私は私好みの高級シングルトイレットペーパーを購入する事に成功した。
今のブランド(「無印良品」の「ダブル」…)のトイレットペーパーが早くなくなる事を祈る毎日である。
2005年06月29日 | Comments(0) | Trackback(0) | 日常の風景
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た ま む し い ろ

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